古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

「家族」というコンプレックス

連日苦手な事務仕事に追われてなかなか研究に向き合えず、だいぶ疲れている。

その上今朝は頗るおぞましいものを垣間見て、ひどく参ってしまった。

今日は仕事はダメだ、と思ってヘーゲルとフランス語を少し読んだ後、研究もせず寝ながら『オデュッセイア』を読んだりしてダラダラ過ごしていた。

 

ホメロスを読むようになったのは先日も書いたエクランドの影響である。

一昨年くらいに初等ギリシャ語を勉強したことを思い出しながら、たしかホメロスギリシャ語はイオニア方言とかいってちょっと語形が特殊なんだよな、ああ、でもせっかく勉強したのだしギリシャ語でも読んでみたいなァ…とうっとりわくわくする。

普通は時系列的に『イリアス』を読むべきなのだが、たまたま手の届くところにあった『オデュッセイア』から松平訳で読み始めた。所謂「英雄譚」で、ギリシャ語原文を読んでいるつもりでゆっくりじっくり読んでいくと、英雄オデュッセウスの息子テレマコスの凛然たる様がありありと浮かんでくる。『三国志』で後に小覇王と呼ばれる孫策が、涙ながらに志のため立ったときのことを書きながら少し思い出す。

半ば未亡人と化したペネロペイアのいじらしさもなんだか新鮮に思える。それを取り巻く欲望にも未亡人の絶望にもテレマコスの憤慨にも共感できるのがよい。こういうものを読んで、漫画やアニメーションにしたいという欲求が芽生えるのは、ある意味では数学者ガウス複素数体系を幾何学平面に表現したことの動機とも関わっている気がする。直観的存在というのは我々を触発する単なる対象なのではなく、我々自身の一つの表現としての意味を持っているのでなければならない。なんだか話が逸れてしまったが、これだから古典というのはやめられない。

 

そういえば、と思う。

職場の教科主任の先生から「これは結構感動した」と薦めていただいた小説を、結局読めていない。荻原浩の「いつか来た道」という作品で、『海の見える理髪店』集英社文庫、2019)に収録されている。1月の末ごろにお借りしたので、随分長いこと放置してしまった。新学期が始まる前に、早く読んで返さなければならない。

 

お借りしてすぐの頃、一つ目の収録作である「海の見える理髪店」を読んだ。

正直あまり面白いと思わなかった。

山場として、理髪店の店主が主人公に剃刀を立てながら殺人を犯した罪を告白するシーンがある。だがこれがピンとこない。そもそも店主も主人公の客も行動や心情があまりに舗装されすぎていて、物語としては「よく出来てるなァ」と感心するのだが(さながらラッセルが『モナドジー』を読んだときのように)、どうも予定調和というか窓がないというか、よく知らない展示品を懇切丁寧に解説してもらったような気分であまり落ち着かない。

とにかく、「足を止めてゆっくり鑑賞する」という気分にならなかったのである。多分大学の現代文学の演習とかでテクスト・クリティークの対象として扱われると優秀なのだろう。そういう読み方をしろ、と言われれば面白いところがたくさんでてきそうな気もする。

 

少し日が経って、主任と職員室で少し仕事のやりとりをしたあと、この本の話になった。

まだ最初のだけですけど、読みました。

へえ、どうだった?

ううん、よくできてるなって思ったんですけど、なんていうか、あんまり来なかったですね、正直。

そっかあ、もしかしたら「いつか来た道」も、先生(私)はそんな感じに思うかもしれんわ。

あ。ちょっと正直に言いすぎたかも。少し気まずい感じの空気になって、とりあえず続き読んでみますね、とお茶を濁しながらその場を去った。

そんなことがあったので、本が目に入るたびに「読まねば」と思ってはいたが、結局そのままズルズル放置してしまったのである。これで読んで本当に「あんまり来なかった」ら、主任になんて言って返そうか、とか考えつつ。

 

なんとなく先ほど思い立って、カバンから取り出して続きを読み始めた。二つ目の収録作が、主任が「結構感動した」とおっしゃっていた「いつか来た道」だった。

 

実家を離れていた主人公の「私」が、弟の「会ってやってよ」という電話をきっかけに、ほとんど離縁状態だった母親に会いに行く。

母親は「好きか嫌いか」の価値観しかない偏向的な画家で、娘だった「私」はそれに振り回されて生きてきた。だから母親に対してコンプレックスを持っている。

 

「家族」というのはそもそもコンプレックスな関係性である。

フロイトオイディプス三角形(父-母-息子)を持ち出すまでもなく、子供の親に対する感情というのは簡単に切り分けられるものではない。

この関係性は単なる「思春期のこじらせ」ではなく、潜在的には半永久的とも言えるものである。どれだけ〈良好〉な「親-子」関係であっても、その根底に「親-子」という関係性がある限り、他の関係性にはない歪みがそこには常に形成されているはずである。子供が親に対して「思春期」的な反抗を次第に取らなくなるのは、そこで形成されている歪みそれ自体を、全体として自覚するようになるからかもしれない。

 

「私」はその歪みを処理しきることができず、母の元を離れていった。だからこそ、改めて母に会うことはその歪みと再び直面することになる。その描写になかなか胸を打たれてしまった。 

さらに、その母へのコンプレックスが決定的な仕方で破壊される(=克服される)シーンが、かなり衝撃的だった。翻って見るとデジャヴを感じないわけでもないが、ともかく良いように読まされてしまった上で、唐突に展開の変わる節目に胸に込み上げて「来る」ものに完全にノックアウトされてしまった。

 

老店主と客、男二人の「海の見える理髪店」は、そのモチーフからして極めて男性的だった。

「殺人」の動機や経緯、全体を一貫して父的なものが流れている。そういう印象を受ける。

一方で「いつか来た道」はそうではない。かと言って所謂大地性、母胎性的な意味での母的なものというわけでもない。ここにはリビドー的な家族性は薄い(一部それを解釈することのできる要点はあるがここでは論じない)。

そうではなくて、ある意味そうした家族模型「父-母-子供」という形式それ自体の合理性から逃れた、つまりあえて言うならアポロン的なものものから逃れたもの(かと言っても単純にデュオニュソス的ではなく、ヘラ的なものと言う方がまだ近い)が、ここでは問題になっているのである。荻原浩はこの二つの作品を書き分けている。それがすごい。

 

主任はどのようにこの話を読んで「結構感動した」のだろうか、新学期にお伺いするのが少し楽しみになってきた。

私はこれを、ギリシャ的なものから引き離してなんとかうまく表現できるよう、考えておかなくてはならない。