古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

インテリと大衆の間の怨恨に

なにかがおかしい。

いったいなにがおかしいのか。なにが拗れているのか。

 

Twitterで意識的に日常に抑揚をつけるようになってから、昔の仲間と「つながる」ためだけに使っていたアカウントはだんだん使わなくなっていった。

それどころか、そこで流れてくるツイートになにかしら不快な想いを抱くことが増えた。

自分の @Picassophia のアカウントは、本当に気のおけない身内と哲学的な仕事のために使っている。このタイムラインには大学人やインテリがどうしても多いので、リベラル寄りの政治批判もまたよく流れてくる。その一つ一つに憂いを覚えることは当然あるが、基本的に自分は、金と卑俗な関係に塗れるだけでなく反知性的な態度において一貫している現政権に対してほとほと呆れているので、基本的には同調することが多い。それでも根本的に「政治的なもの」に忌避感を持っている人間だから、たいてい暗澹たる想いにはなるのだが。

 

そういう感覚とは別のものを、もう一つのアカウントでは感じる機会が増えた。

よく分からない。

すこし前までは、自分がそれだけ「変化」してしまったのかもしれない、とも感じていた。

それは多少不遜な色彩を帯びるものであるから、ここに書くことも少し憚られる。要するに、昔の仲間が「昔の」という過去の関係に遠くなるほどまでに、自分は別なる境地に辿り着いてしまったのではないか、という感覚だ。

これでも一応研究者としての環境に身を置き、自分の課題を徹底的に追究してきた身である。その中でおのずから——自分があまり好きではなかった——「インテリ」になってしまったようなところが、あるのではないか。

自分が哲学の研究を始めたとき——そのときはまだ高校生だったが——強く抱いていたのは、自分のような勉強のできない高校生でも、納得の行くような答え(それこそが「真理」である!)を探すということだった。「ガクモン」や「テツガク」のイメージに跼蹐しつつも、それらになんとなく可能性を感じていた当時の自分にとって、「こんなあまりにバカな自分でも納得できるような答えじゃなければ、「真実」ではないはずだ」という確信はあまりに強固なものだった。(どう思われているか分からないが、自分は決して「勉強ができる」中高時代を送ってきたわけではない。むしろ自分はずっと「勉強ができない」という感覚を抱いていたし、それを払拭できるようになったのはごく最近のことだ。)

「一部の知識人・教養人にのみ分かることで、そうじゃない人間には分からないようなことが、人生の真理であるはずがない」という当為。これは「一部の知識人・教養人」ではない自分にとっての、哲学研究の際の一つの強いモチベーションだった。

だが、この内面的当為に対する見方が、当時の生々しい感覚をありありと思い出せないほどに変わってしまったところを見ると、自分は嫌悪していたはずの「一部の知識人・教養人」の側にむしろ近づいてしまったようである。

もちろん「一部の知識人・教養人のみに分かる」ような占有物、独占物が「この世の真理」であるとは今の自分も思っていない。しかし、そこに至るまでの道程を振り返ってみると決してそれは並大抵の努力ではなかったし、その意味でも浅学であることに溺れて都合の良い「受益者」「消費者」になっている人々が一朝一夕で「利用」できるものではないことは、断言できる。

哲学的真理は世界の真理であり、自分の真理である。

その構造、生成、根拠を体得することは、電子レンジでチンするようなこととはまるで違う。

毎日身を粉にして研究に励んでいる我々のような探究者であっても「体得」には確固たる自信を持てないものである。しかもそれは単に「出会う」だけでは不十分なのだ。「出会い」ののち、それを記述し、説明し、開陳することが学問の責務であり、分節化を問題にする。この一連の仕事の重々しさは、「一般の人」にはなかなか理解され難い。

そう、要するに、このように「一般の人」という言葉を不可避的に使ってしまうほどに、自分は異端で稀有で「特殊な人」になってしまったということだ。

人はそれを「アイデンティティ」や「個性」、つまり一種の「自分らしさ」のように捉えるかもしれないが、哲学者にとってそのいずれもが探究の対象であるから、そこにはほとんど自己を肯定する宝石のようなものは見出されない。「自分らしさ」にほくそ笑む前に、「自分らしさ」なる概念はなにを根拠として成立しているかを問うのが、哲学者であるはずだ。「人と違う自分」に好い気になっているうちはまだ哲学を徹底していない。だから決して「特殊な人」であるということはポジティブなものではない。そこにあるのはただ「隔たり」である。

 

少し前に、自分も尊敬している哲学者である千葉雅也氏がこんなことをツイートしていた。

 

 

問題を徹底すると、この見解にたどり着くのだと私は思う。

インテリは非常に豊かにものを考える。歴史や考え方をストックし、そこから自在に観念を引き出してものを考えることができる。「よいかわるいか」「うまいかまずいか」「正しいか間違いか」の二元性を解体し、どのような場合に、どのような条件で、どのような意味で、それらが結論として導出されるのかを問題にすることができる。

この豊かさが、実は逆説的に貧しさでもある。 「よいかわるいか」「うまいかまずいか」「正しいか間違いか」のシンプルな二元性の中にも構築されているイメージがある。インテリはそれらを、そのイメージとして再現することができない。そこには明らかに「喪失」がある。

 

混濁した意識状態の中で、アプリオリなものと経験的なものとの区別もなく、感情と論理の区別もなく、だからこそ営まれている「生」がある。それをインテリは消失してしまっている。

 

ここでそれを「成長」と称するのは野暮なことである。「成長」の概念自体がそこではまず問われるべきだからだ。 我々は過去と対峙することで素朴に「成長」を口にする。そこには実り豊かな「進歩」「前進」が前景化している。しかしそこには失われたものがある。問題はこの「失われたもの」、否「失われたこと」を主題化するということなのだ。千葉氏の指摘は、この主題化について多くのインテリが野暮な態度を取っていることへの示唆だと言い換えてもいいかもしれない。

 

さて、そろそろ不可避的に問題にしなければならないのは、ルサンチマンの問題である。ここまでずっと「大衆とインテリ」という図式を敷衍してきたわけだが、こうした社会図式にまつわる言説において必ず問題になるのがルサンチマンである。

「怨恨」と翻訳されるこの哲学用語はニーチェに由来し、人口に膾炙している。ここではその詳細な説明は控えるが、現今のほとんどの社会図式の二項対立においてはもはや「弱者の抱く強者への感情」という方向に留まらないように思う。リバタリアンの志向する「超人」はもちろんニーチェ的なものであり、その意味で超人がルサンチマンを抱くというのは概念的に適当とは言い難いだろう。しかしリバタリアン的「強者」の論理が「弱者」を標的的に攻撃するとき、そこには〈怨恨〉に近いなにかが表現されているように自分は思う。このことを加味して広い意味で「ルサンチマン」という用語を使ってみたい。

富裕層が経済的弱者に対して高圧的な態度をとることは、最近の流れとしては珍しくない。

生活保護受給者はもっと働くべき」「我々はなすべき膨大な努力を経てこの地位にある」という言説それ自体に同調する人も多いように思う。働かざるもの食うべからず。そこに共感を覚える、という事態。そこにまず着目しなければならない。

こうした言説の背後には、明らかに「自分以外の誰か/ある集団」に対する敵愾心がある。そう主張したいと駆り立てられるような不条理、非合理がある。そこにルサンチマンがある。

納税量、管理職、有名性といったステータスには、相応の労苦が伴われている。その労苦が報われ難いことの先にルサンチマンが生じる。経済的、社会的地位の高い人間が、そうでない人間に対して抱く感情。近年はこの感情が濁流のように表沙汰になっているように思う。

 

この図式は、インテリと大衆の間にも成立しないわけではない。インテリが大衆を知的に見下し、優越するときには、必ず大衆に対する何らかの蔑視が含まれている。この蔑視は、しかし突き詰めれば怨恨である。知的制度体制の網目をかいくぐって「支配」を逃れようとする大衆に対するルサンチマンがそこにはある。学級委員長が、素行不良なクラスメートに対して抱く感情に、それはよく似ている。

 

自分が最近抱く感情も、決して例外ではないと思う。

「みんなもっと丁寧に問題を考えられないのか」という憤慨した想いに突き動かされるとき、私のルサンチマンは明らかにのうのうといい加減なことを述べて周囲を不快にさせている無学者無教養人に向けられている。しかし自分の中にあるものは「怨恨」だけなのか、ということもよく観察してみる必要がある。図式関係において怨恨だけが支配的であるというだけの主張には、なんら指導的責任が伴われていない。学者であるなら、そこに指導性がなければならない。そしてその指導性を、自分は哲学研究の中で遂行し、構築しているのだ。

 

ここでそのことを試みに論じてみてもよいのだが、今日主題化したいのは別のことである。

冒頭に戻りたい。

 

なにかがおかしい。

いったいなにがおかしいのか。なにが拗れているのか。

 

昔のアカウントでタイムラインを見るときに抱く違和感、不快感。

その原因は、今述べてきたようなある種のルサンチマンにあるのではないか。

最近まではそう思っていたが、また別の問題があるような気がする。これを問題にするために、書き始めたのだった。

コロナで決定的になったのかは分からない。

なにか世界中の人間がとにかくこれまでの安寧を失って、剥き出しの悲鳴を上げている。

政策と生活の間の亀裂が身を損ない始め、災害が人々を襲い、有名な俳優が自死したと報道される。

 

もう一度言おう。

なにかがおかしい。

いったいなにがおかしいのか。なにが拗れているのか。

 

哲学者として自分はこのことを問題にしなければならない。

そこに暫定的な「拓き」を論じて、自分の中で体系的に整理してみせることは、今の自分でもできるかもしれない(西田哲学はそれほどまでに広大で深い)。

ただそれは、自分の拙い表現力と浅い知識でおこなわれるかぎり、おそらく「世界的な」効力をもたない。

世界は自分の精進を俟ってくれるだろうか。それまでに大切なものを破壊し尽くしてはしまわないだろうか。