古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

修羅道に堕ちること

コロナ騒ぎと政府の対応で日本中が大混乱になっている。

 

今日も今日とて翻訳作業をしなければならないのだが、あまりに集中できないし落ち着かないので思い切ってのんびり過ごすことにした。普段土日祝日返上で研究活動に従事しているのだから、平日の一日に自己判断で研究を中断することくらい多めに見て欲しい。

 

などと言っても、過ごし方が自ずから読書と思索に傾くのは、ほんとサガだよなぁと思う。

積ん読や読みかけを片っ端から読み漁って、ときたまぼんやり本から目を離して色々考える。

どこかでこの大混乱を忘れられないでいるので、相変わらず落ち着かない。

イーヴァル・エクランドの『予測不可能性、あるいは計算の魔』(南條郁子訳、みすず書房、2018)を通して、「過去なら完全にわかっている」のに「時を下ることはできない」という未来性の神秘、計算の無力さというものから、科学者と技術者と大衆の関係などいろいろ考えてしまった。

 

一斉休校要請の問題を受けて、政府に対する猛反発が勃興しているように(少なくとも自分の観察範囲では)見えるのが、せめてもの気休めだ。

それでも「何も決定しなかったらそれはそれで批判する癖に。揚げ足取りだ」ともっともらしい詭弁を図る人間がいるのは仕方ない。そういう人は定点観測しかできていないわけで、我々こそそうした定点のしがらみに囚われてはならない。

彼らは「箱庭の中を外から眺める選民(になったつもりの箱庭人)」とでも言うべきで、(箱庭の中にいながらにして、)そのリアリティを自分のものとして受け取る努力をしない。「政治家の感情」(それは彼らにとって涙ぐましい苦渋の決断に溢れているようである)を忖度し共感的に擁護に回ることは、ここではもはや意味をなさない。なぜなら当の「政治家の感情」が我々に向いていないからである。

それは例えるなら、両親に対して暴力的に好き放題振る舞うバカ息子に対して、母親が「それでもこの子もきっと苦しんでいると思うの」と涙ぐましく漏らすようなものである。そんな母親の心境をバカ息子が理解するだろうか。ここで上映されているのは滑稽な要素を残した悲劇であって、現実をなんとか美的に彩ることで直面している現実を塗り替えようとする「本質を見失った」主張にすぎない。我々はこうした詭弁に翻弄されてはならない。

 

それにしても、これだけ現政権に対して憤りが顕在化するのも、おやっと思う。

私としては現政権の振る舞いは長らく「人間一般」を舐め腐った態度として一貫しており、それ故反政府的な感情は日々憤然として止まないものである。

が、世の中には「人間一般」を侮蔑することを上等とした人々もいるわけで、多くの人々はそういう人の感化を知らず知らずに受けて少しずつ「他人と自分に対して舐めた態度をとること」に慣れていく。

それが所謂「大衆」であり、「大衆の堕落」なのだと思っている。

 

ただ、「大衆」は決してそれを意識的にやってのけるわけではない。

だから「人間一般に対して敬意を持つこと」に感化される可能性も同等に有している。

 

今回の騒動で比較的こちらに流れてきている人がいるようだというのを、体感的に感じる。

そういう態度決定はおのずから「人間一般」を舐め腐った人々と対立するものであり、反政府的な言動がSNS上で目立ち始めているのもそういうことなのかしら、と思ったりする。

 

ところで、私はかなり前から「怒り」という感情について考えてみたいと思っていた。

ここまで「怒り」という表現を避けて「憤り」を基調とした表現を用いてきたが、これを同カテゴリーとして収納したとき、「我々はなぜ「怒る」のか?」という素朴な疑問が提出されることになる。

 

——「我々はなぜ「怒る」のか?」

感情一般に対する哲学的攻究は豊富である。

例えばアリストテレスは、哲学の動機を「驚きθαυμάζειν」として語った。それに対して西田は「哲学の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言った。カントは「驚き Verwunderung」について、「崇高 Erhabene」という特別な概念を与えた。ベルクソンは「笑い rire」を問題に取り上げた。

 

秋月龍珉の『誤解された仏教』講談社学術文庫、2006)でとりわけ私の目を引いたのは、「修羅道」をめぐる言説であった。彼は序盤でこんな話を紹介している。

 

あるとき、カルチャーセンターで、「仏教」の「貪・瞋・痴」という「三毒煩悩」の話をして、「怒ってはならぬ」、たとえ一念怒っても、その念を継いではならぬ、とかく私たちは一念の怒りを二念・三念と怒り継いで、煩悩で「本心」(仏心)が毒されるのだといって、臨済の「已起のものは続ぐなかれ、未起のものは放起するを要せざれ」(すでに起こった念を続ぐな、まだ起こらぬ念は起こすな)という語を紹介したら、あるかたが「それでも老師、禅では正義のためには、それこそ天地いっぱいの怒りを起こして、戦わなければならないのですよね」と指摘した。私はそのときにいった。「それは誤りです。たとえ正義のためであろうと、『争う』のはもう仏道ではありません。修羅道です。戦時中の日本人も、最近のイラク大統領も、まったく同じように、宗教の名で戦争するといったでしょ。あれは宗教の誤用です。戦争、いや争うことは、断じて仏教者の取らぬところです。中には『法のために』といって争う人もいますが、そんな『法』はありません。仏法には本来『摂受』はあっても『折伏』ということはありません。それは仏道ではなく修羅道です。不動明王折伏は、自分に向けてのもので、他者へ向けるものではありません」

 

ここでの秋月の「怒ってはならぬ」という力強い一言は、私にとって一つの哲学的疑義の受容だった。また別の箇所で秋月は以下のように強調する。

遠くは西洋の十字軍のように、唯一にして義なる神のためにといい、近くは大東亜共栄圏の美名に隠れた旧日本軍の侵略戦争のように、あるいは「法」のための折伏の名のもとに、また民族自立とか王道楽土建設の名のもとに、殺人行為を是認する、一切の戦争、いやすべての「争い」の心を徹底的に否定するために、仏教では「修羅」道に堕ちることを極端に恐れるのである。一切の戦争を、いやすべての争いの心を、全面否定するのが、仏教徒の願いである。「法」のためといって争うとき、それはもう断じて仏教徒ではない。仏教は争わない。常に相手を拝んで生きる。

 

「怒ってはならぬ」。

「仏教では「修羅」道に堕ちることを極端に恐れる」。 

老師の主張は重く受け止められる。しかし現状我々凡夫はそうあるわけではない。

先ほど書いたように、大衆は周囲の傾向性に揺らぎながら自己の態度を決定し、それと相反する立場におのずから対立することになる。

私は「人間一般」を舐め腐った人々に対して憤りを隠せない。

しかしこうした感情に見舞われる時、いつも「怒ってはならぬ」という一言が浮かび上がる。

 

修羅道に堕ちてはいけない。それは「争い」を生むからだ。「争い」はどんな目的であれ、他者を侵略していく。他者は「折伏」ではない仕方で、制圧ではない仕方で、出会われなければならない…。

 

「怒り」に対する考究の態度は「修羅道に堕ちること」として自分の中で大きな問題になっている。

修羅道に堕ちることを戒めること、しかも妥協や諦念ではない仕方で。

それは、日本人が好きな「和を重んじる(=現にあるものを乱すことを潔しとしない)」という意味に曲解されがちな「和を以て貴しと為す」ではない。元来「和」は乱れなき様でなければならない。外見上「和」に見えるのに、内側にほころびがあるというのは、「和」ではない。多くの人は「和」ではないものに「和」という言葉を当てがっているように見える。修羅道に堕ちることの戒めも、そのようなところから解釈されなければならないと、強く思う。