古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

Essai divertissant sur l'étude de la philosophie au ⅩⅩe siècle

単調な毎日が続いているので、気晴らしに進捗を描いてみることにした。

本当に毎日同じようなことばかりしている。

 

先々週くらいに今年度の大きな論文が無事通過したのでほっとして次の仕事の準備を始めた。

といっても論文自体はかなり前に出来上がっていて、それ以来だいたい同じような生活が繰り返されている。

 

自分の専門は「日本哲学」だが、およそこの字面のイメージからは程遠い問題を研究していると言っていい。

実際は近代数学、近代科学と日本哲学の接点のようなところをやっているからだ。

このあたりはとりわけここ数年かなり注目され始めていると思うのだが、いずれにせよ先哲がいないのでほとんど開拓作業である。

 

一般にはあまり知られていないことだろうが、近代日本哲学というのは西洋哲学が下地となって形成されたものであるため、いわゆる「哲学」の知識を欠かすことができない。

イメージだけだと「東洋の哲学」という漠然としたものが一人歩きし始めてしまうかもしれないが、あくまで西洋哲学的な「学問としての哲学」を志向する趣は、一般に認知されているよりはるかに強い。

だから日本哲学研究というのは結局東西両思想をやるハメになる、なかなか忙しい研究分野なのである。

 

私のように西洋の「学問」の象徴的存在である数学や科学を扱う研究になると、尚更課題は多い。とりわけ純粋に西洋哲学の間でも、近代日本哲学が急速に発展し始める時期と重なる19世紀末から20世紀にかけての自然科学への関心は、ここ最近かなり高まっている。

もともとこの時期は「新カント派」という名称で括られる(現今の目から見れば)ニッチな連中が甚大な影響力を有していた。

しかし、哲学史的には「ヘーゲル以降ハイデガー以前」として、あまり注目されることがなかった。それは特にハイデガーのカント解釈『カントと形而上学の問題』が、それまでのカント解釈を塗り替えてしまうほどの衝撃を世界に与えたからだろう。

日本でもその影響は甚大で、新カント派研究の浸透していた状況を一気に塗り替えてしまった。それ以降「新カント派」に関する研究はほとんど息を潜めてしまった。

 

私のここ数年の仕事のうちの一つは、この「新カント派」をできるだけ広い射程で再検討し直そうとすることだった。これと並行してどうしても同時代の数学や科学、現象学生の哲学などを参照する必要があり、なんだか客観的に見ると迷走しているようにも思える。

 

まずカントをもう一度丁寧に抑え直そうと思い、三批判書の再読を始めた。

数ヶ月かかってしまったが、一応今日『判断力批判』の目的論的判断力の方法論まで終わった。「方法論」Methodenlehre の問題というのは、カント研究的にどういう位置付けなのか知らないが、少なくとも花形でないことは確かだろう。知り合いのカント研究者にいくらか聞いてみたりしたが、特別関心を持っている人というのは、やはり少しズレた人である。ストレートなカント研究者はあまり注目しないのだろう。

私は結構アイデアを Methodenlehre から仕入れることもあって、いつかちょっと書いてみたいのだが、それはコーヘンや西田の問題とも関わっているような気がするな、とも思っている。

 

これと並行して、特にライプニッツの検討もした。これは来月簡単に見当を書くつもりなのだが、私のなかでライプニッツの「個体概念」に対する問題から西田の「場所」までの道程を1920年代の特徴として描くことができるのでは、という仮説が立っている。

 

なかなか遅々として進まず、結局半ばでやめてしまったのはラッセルの The Principles of Mathematics である。我ながら本当に英語が苦手だなァと思う。

分析哲学との接点を考える上でも、田辺の数理哲学をさらに解析する上でもこの本は不可欠なのだが(そういう打算抜きにしても、これだけ体系的に書かれた本というのはそれだけで価値あるもののように思う)、いずれにせよ負担が大きすぎた。英独仏の三ヶ国語を読みながら本分の日本哲学を研究するのはさすがに無理がある。これは先に回すことにした。

 

年明けからしばらくフッサールLogische Untersuchungen を翻訳していたが、これもとても難しかった。せっかく Gesammelte Schriften を買ったのでしばらく辛抱して読んでいたが、切りのいいところで中断した。知人とも相談して、既刊の翻訳で読むことにした。

三木清も言っている。「原著癖にとらはれて翻訳物を軽蔑し、折角相当な翻訳が出てゐるのに読まないで損をしてゐる学徒も多い。どんなのものでも原書で読まうとしてゐるために、自分で考へる余裕を奪はれてゐる人もある。なんと云つても翻訳なら速く読める、その上翻訳書はその内容の要領を掴む点から云つても便利である。」(「軽蔑された翻訳」より)*1

 

フッサールの代わりに、これまた厄介ではあるが取り組み始めたのがナトルプの Die Grundlagen der exakten Wissenschaften である。これは翻訳がないので逃げようがない。背水の陣を敷いたというわけだ。いずれにせよこの本はもっと評価されても良いのでは、という直感が私にはある。

 

フランスものはしばらく近代科学者のものをつまみ読みしたり、ベルクソンドゥルーズをかじったりしていたが、最近は一貫してポアンカレを読んでいる。

ポアンカレのフランス語は読んでいて実に気持ちがいい。

Twitter にも書いたが、フランス語は美味しい。しっかりと噛みしめるとぎゅっと詰まった味がじわりと広がっていく。ドイツ語はしっかりごっつりしていて飲み込みにくいのである。英語は逆に同じゲルマン系と思えないほど、喉の奥まで一気につるんと入ってしまう。それゆえに味があまりしない。フランス語はその点美味しい。

最初 Science et Méthode の一節を読んでいたが、ここ最近はギュスタヴ・ル・ボンの序文から丁寧に La Science et l'Hyphoothèse  を翻訳している。

先日古本屋で河野伊三郎訳を手に入れたことで、我が家にはポアンカレの『科学と仮説』、『科学の価値』(田辺元訳)、『科学と方法』(吉田洋一訳)の三書の訳書がめでたく揃ってしまった。田辺のポアンカレへの傾倒具合は研究していて目を引くものであったが、自分も田辺と同じ道を歩んでしまっていてなんか少し悔しい。

 

ひょんなことで前から気になっていた Frédéric Worms 氏の La philosophie en France au ⅩⅩe siècle. Moments. を知人から拝借したので、これは適当に読んでいる。早速出てくるブランシュヴィックという人は、調べてみるとナトルプの影響下にあったらしく、なんだか本当にこのあたりは繋がるよなァとしみじみ感じさせられる。

 

そんなこんなで毎日毎日ドイツ語やフランス語を読んでいる。

正直外国語は得意ではないので、「よーしがんばるぞー」と自身を奮い立たせながらの境地である。飽きもするし、萎えもする。こう書いてみると膨大な量を処理しているように思われるかもしれないが、実際の作業は遅々たるものである。今日もポアンカレの一節を訳したにすぎない。教壇に立つ仕事にも追われながら、こうも毎日進展がないと少し落ち込むところもある。時間は無限ではない、ということが現前に迫ってくる。適当なところで本分に戻って集中しないといけないのだが。

 

ともかく年度内はこのペースでやっても良いか、という気もしている。

年度が変わると生活もまた変わるため、そのときに本分にリターンするのがいいかもしれない。もっと効率よくやる術もあるのかもしれないが、いまのところこれが最善なのだから愈々途方に暮れる。世の人はいったいどうやって勉強しているのだろう。

 

こういう作業は人知れず黙々とやって然るべきなのだろう。

進捗の悪さばかり気にしてしまうが、比例が西田や田辺、三木、九鬼といった人たちなのがいけない。いったいどんなスピードで読んでたんだよ、と突っ込みたくなる。そういう人に追いつくために研鑽しているのだからやるしかない。

 

それでも毎日孤独に単調な作業に沒するのは精神的につらいこともある。たまにはこういうことを書いてみるのも気晴らしだな、と思う。

 

 

 

 

*1:なお、三木自身が一方で「原語で読むことができないといふ理由でそれを読まないといふのは悪い口実である。また翻訳で間に合はせて十分な書物も多い。しかし重要な本はできるだけ原書で読むやうにしなければならぬ。翻訳の方が簡単であるからといふので原語で読むことを避けようとするのは読書における便宜主義であつて、便宜主義は読書においても有害である。」(「如何に読書すべきか」より)と述べていることは十分注意されたい。私としても耳が痛い教えであるが、決して『論理学研究』を「翻訳で間に合はせて十分な書物」と考えているわけではないことは強調しておく。