古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

中納言への生成変化とその破壊——『枕草子』の映像性

教材で『枕草子』を使うことになった。

みんな大好き(?)春はあけぼのやうやう…ではなく、「中納言参りたまひて…」という入りから始まる、とても短いお話だ。以下に全文を引用しておこう。

中納言参りたまひて、御扇奉らせたまふに、

「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。それを張らせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。」と申したまふ。

「いかやうにかある。」

と問いきこえさせたまへば、

「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」

と、言高くのたまへば、

「さては、扇のにはあらで、くらげのななり。」

と聞こゆれば、

「これは隆家が言にしてむ。」

とて、笑ひたまふ。

かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、

「一つな落としそ。」

と言へば、いかがはせむ。

古文に自信のある方は是非ゆるりと読まれたい。決して得意ではない、という人は適当に流してくれて構わない。どのみち追って説明する。

私はこの話を、教材として扱うことが決まってから初めて読むことになった。

枕草子』は断片としてそれまでも少しずつ読んでいた。これはのっそり楽しむのにすこぶる相性が良い。適当なページを開いて、目に止まったところから読んでいくというのもなかなかオツなもので、何より手軽である。

よく人に言い触れ回っているので、ご存知の方も多いと思われるが、私が『枕草子』の中で最も好きなのは、第130段「九月ばかり…」である。興味がある方は是非ググってほしい。

 

さて、ともかくそんなこんなで「好き」とは異なる角度から切り込むことになった「中納言参りたまひて」。

教える以上、まずは内容を把握して、そのあと丁寧に品詞分解やら解釈やらで文章を丸裸にしていかざるを得ない。

 

ということで、ところてんを啜るようにするりと読んでみた。実際この長さなのだから、ところてんスケールでのみ込めてしまうのが、思えばまずいところである。

 

初読の感想は、なにか腑に落ちないというか、しこりが残るようなものであった。

正直言って「よく分からない」のである。

もちろん、これでも一介の古典教師なのだから、決して文法的な問題にぶつかっているわけではない(と信じたい)。

問題は「内容」である。「内容」としての面白さが、ところてんならいざ知らず、味わいとともに全く入ってこないのだ。

簡単に「内容」を説明すればこうなる——、

 

藤原隆家こと「中納言」が、自分の姉である「中宮定子」のもとに「扇」を献上しにやってくる。

中納言は、「めっちゃイイ扇の骨(木とかで作られている骨格の部分)を見つけたんですよ!こんなイイものに、生半可な紙を貼るべきじゃないと思うんで、何か良い紙を探してるんですよね〜」と自慢話を始めるので、お姉さんの「中宮」も「一体どんな骨なのかしら??」と話に食いついていく。

中納言は「も〜全てが完璧なんですわ!みんな「まだ見たことのない骨だ!」なんで言うもんで。まぁ、実際こんなすごい骨は見たことないですね〜」と得意げに言う。

そこで中宮の家庭教師役で、この話の書き手でもある「清少納言」が一言。

「だれも見たことのない骨って…それじゃ「くらげの骨」ということなのですね」。

当然だが、くらげに骨はない。つまり、清少納言は「だれも見たことのない骨」を洒落て言って見せたわけである。この機転の良さに、周りは関心する。「座布団一枚」である。

それまで得意げだった中納言は、周りの視点を清少納言に取られてしまって、「ぼくが言ったことにしてしまおうか」と笑うが、もはや「時の人」ではなくなってしまっている。みんなの関心は、中納言から清少納言に移ってしまったのである。

最後に、清少納言本人が、「こんな私の自慢話みっともないけど、周りの人が「ひとつも落とさずに書いてください!」というのだから、書くしかないわよね…」とこぼしてオチがつく。「とほほ…もういたずらはこりごりだ……ちゃんちゃん」の「ちゃんちゃん」である。

 

ストーリーをコミカルに描写してみるとこんな感じだろうか。

この記事の読者諸氏にも、是非とも初読の感想を請いたいところだが、私はまず率直に思った。

これは果たして「面白い」のだろうか?? 

Twitterでも同じことを述べたが、見たこともないような扇の骨を見つけて自慢しにきた中納言に、清少納言が現実に存在しない「くらげの骨」を持ち出して、その場の空気をかっさらっていった自慢話の、どこが「面白い」のか。

批判でも批評でもなく、私はこの問いを素朴に疑問として抱いた。

この問題は、哲学的に掘り下げれば、「おもしろ」とはなんなのか、というなかなかエキセントリックな問いに通じるものだと思う。そしてそこで重要なのは「一般」的な命題にたどり着くことではなく、この「特殊」の事例を説明するロジックなのである。

 

ちなみに同僚の先生に聞いて見たところ、だいたい同じような感想が返ってきた。その先生は「もう清少納言の自慢話っていうくくりでオチをシメる他ない」と諦めていらっしゃった。

私も諦めて「そういう話だ」と丸め込んで教えてしまえば楽なのだろうが、果たしてそれもどうなのか…と逡巡していた。

 問題は、最初に述べたように「内容」だ。

この話は、「中納言の自慢話をかっさらった清少納言の自慢話」という「内容」に「要約」することができる。しかし、そこには「内容」としての格別の面白さがあるわけではない。

「要約」という限定方法にも当然問題はあるだろうが、今回の場合、あまりそれは大きな要因を占めないはずである。なぜならここで問題になっているのは、この話の「コンセプト」であって、「言葉」の問題ではないからだ。

 

なぜこんな話が教科書に載っているのか?

この事実をポジティブに解釈するなら、こう考えるしかない(と少なくとも私は思った)。すなわち「内容」とは別に「面白く読む読み方が存在する」ということである。

 

というわけで、私は教材研究に勤しむことにした。なんて真面目な教員だろうか。褒めて欲しい。
 

まずは、作品の形式的な分析から。

これは短い作品だからこそ、「読めて」しまうところがある。

例えば『源氏物語』や『失われた時を求めて』の難しさのひとつは、そのボリュームにある。「読破」ということ自体がひとつの壁になっているわけだ。
それに対して「中納言参りたまひて」のような、ところてんスケールの作品であれば、つるんと一飲み、「読破」は容易い。
「読書」をステータスにする人々の多くが「読んだか否か」の基準とするものが、「最後まで目を通したか否か」であるということも、結局この点から言えることなのだろう。ただ、のみ込めてしまうからと言って、それでところてんの全てが理解できるわけではない(別にところてんに義理もないのだが)。ゆっくりと噛み締め、味わうということがそこでは重要になってくる。「噛めば噛むほど…」というスルメ・パターンだ。


しかし、この表現は些か抽象的すぎて、もっといえば月並みである。

国語の教科書には、嫌という程この「味わい深さ」とか「噛み締め」とかに類する言葉が出てくるが、率直に言って、「味わい」はそれに対する味覚があるから出てくるのであって、そもそも食べ方を知らない人からすれば滑稽な表現でしかない。

ここに感性的な教育の難しさがあると言っても過言ではない。

どれだけ文面で「味わおう」とか「感じよう」とか言われても、それが現実の身体感覚として「自分」に現れてこなければ、そうした「体験」はどこまでも「自分」と隔たりを持ったものとして認識されてしまう。肝心なのは「身体との同期」であって、「言葉の上での理解」ではない。

昨今「物語」教育を廃止して、「論理国語」一本で「国語科」を建設するという提案が文科省を中心になされているわけだが、彼らの主張を裏づける合理性というのは、まさに「感性」の問題を「論理」で以って扱うことにそもそも限界があるというところに存するのだと言える。

ただ、我々人間というのは不思議なもので、「なんかそんな気がする」という曖昧で非論理的な「感覚」を現実に有することがある。

目の前に料理があるわけではないのに、文面で「料理」の話をされると、「なんか料理が目の前にある気がする」という精神状態になぜか陥るというようなことが往々にしてある。

いわゆる「物語」教育の重要性は、この「なんかそんな気がする」身体感覚を経験することにあると思う。
けだしあらゆる「判断」というものは、この「なんかそんな気がする」身体感覚によって生み出されてくるのであるから、「なんかそんな気がする」身体感覚というのは、言わば「判断の源泉」のような役割を果たしているということになる。その意味で、判断を拡張し、知識を増やすにも、このような身体感覚の経験というのは非常に重要であると言える。
しかし、この経験は決して「論理的文面」からア・プリオリに立ち現れてくるわけではない。そこに難しさがある。


話が若干逸れてしまったが、「中納言参りたまひて」において、さしあたり重要なのは「なんか目の前に中納言が参りたまふていらっしゃる気がする」という身体感覚を、自分のものとして経験することだ。文章を読みながら、そのような感覚と同期することなのだ。

それは、「映像化」とも言い表せる。

実際、我々は文面から「情景」を「見る」。脳裏に再現=再構築される意味情景を、スクリーンに映し出された映像のように認識する。これが「なんかそんな気がする」身体感覚との同期に他ならない。

このことは、「文章」を当たり前のように読める人間からすれば、当然の事実だろう。

しかし、そのような身体感覚に無自覚な人間にとっては、「単なる文字列の認識」と「意味との同期」の間に存在する超えがたい罅隙は、非常に苦しいギャップとなって現れてくる。
私も長らく本が読めなかった人間であるが、そうした状況にあっては「中納言参りたまひて」の文字列は視覚入力音声出力の単なるデータとしてしか認識されず、その奥にあるところの、中納言中宮のもとに馳せ参じる具体的な映像へと至るのは非常に困難であると言わざるを得ない。

この問題はこの問題として考えなければならない問題ではあるのだが、とにかくここでは「映像化」の重要性が諸氏に伝わればそれで良い。
「読んだ言葉」を「映像化」する技術。これを「ちゃんと」できるかどうかが重要である。


では、少しずつ「映像化」を意識しながら本文を読んでみよう。

中納言参りたまひて、御扇奉らせたまふに、
「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。それを張らせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。」と申したまふ。

自身の脳内スクリーンに「中納言」を映し出すことができれば、それで十分である。

中納言中宮に立ち会って、献上するための扇の話をし始める。
当然周りには人がいる。清少納言もすぐそばで聞いている。その場の空気は中納言が支配している。

中納言は言う、「わたくしこそが、すばらしい扇の骨を手に入れたのであります!!」

その場にいる人々の視線は、中納言に集中している。当然それを映し出しているスクリーンも、焦点は中納言にある。
映像は身体と同期し、緊張感を煽ってくる。

「いかやうにかある。」
と問いきこえさせたまへば、
「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」
と、言高くのたまへば、

中納言の演説に、周りは自ずから惹かれていく。中宮本人もまた、「それはどのようなものであるのか」と興味津々である。
中納言はいま、非常に高いボルテージの中に包み込まれている。
だからこそ、声高に言う、「すべてが完璧なのです、未だ見たことがないような…」。
未だ見たことがないような、想像を絶するほどの素晴らしいもの。人々や中宮は当然この語り口に、さらに強く惹きつけられていく。
そんなショットの流れる映像中、不意に聞き慣れない人の声が映り込む。

「さては、扇のにはあらで、くらげのななり。」
と聞こゆれば、

ここで、スクリーンはいっきに中納言を離れ、声元である清少納言に一気にクローズアップ。

この「洒落」の良さ云々は置いておいて、ここで重要なのはこのカメラワークである。

 

先ほどから述べているように、ここでは「読んだ言葉」を「ちゃんと」「映像化」できるかどうか、ということが試されている。

それは言葉を読み落とすことなく、文学の時間性に身を委ねて、映像を展開できるかどうか、ということである。

その映像性を以上のように展開していくとき、そのカメラワークが劇的に変化するシーンは、言うまでもなく清少納言のこぼした一言になってくる。ここで生じる動きそれ自体が、ひとつのモンタージュとして、映像自身をある意味で「編集」してしまうわけだ。

この後いくら「これは隆家が言にしてむ。」とて、笑ひたまふても、もう遅い。

 

このことをちょっと気取ってドゥルーズ風に言うのであれば、その場の雰囲気を完全に支配していたはずの中納言への身体的同期、生成変化(devenir)が打ち破られ、破壊されるということになると思う。

そのとき読者である「私」は中納言と《溶け合っていた》。

その《溶け合い》から我に帰り、ひとつの状態が破壊されること。

ちょうど魔法が解けるような、非連続的なものがそこで生じるということ。

その契機となるのが「くらげの骨」であり、この持続の《切れ目》を意識することが、この「中納言参りたまひて」のひとつの醍醐味なのではないか。

結局、この話の「面白さ」は、やはり「内容」ではなく、「映像性」或いはその「展開」にあるのではないか。

 

教材研究を通して、なんとかこの「中納言参りたまひて」の「面白さ」を考えてみたが、私がリンクすることのできた身体感覚は以上のもので精一杯であった。

「映像化」とそれ自身への《溶け合い》、そしてその《溶け合い》の破壊ということが、「面白さ」を引き出すひとつの装置になっているように思われた。

もし「内容」としての「面白さ」を力説してくださる方がいらっしゃれば、ぜひご高説を請いたい。私は以上のような側面で「面白さ」を主張する段階でお手上げである。

 

(追記)数年を経て、記事を読み返した。

いくらか字句の訂正を加えた上で、当時の教師としての未熟をなんだか恥ずかしく思う。教材として、古典文法における敬語用法の実例を確かめるのに「中納言」が良い材料となることは、当時としても認識していたつもりである。それを承知の上で、よくもまぁここまで面倒な書き方で奇妙な読み方を模索したものだな、と我ながら感服する。

この一節をカメラワークに注目して読むというのは、なかなかよく考えたなと思うが、そもそも教材として向き合うということに、まだ教師として不慣れな面がよく見える。いくらか自分も成熟した証拠かもしれない。